ストーリーとゲーム

このブログでは何度も書いてきているが、最近のゲームはストーリー付きのものが多くなってきている。キャラクターを強く打ち出せば、グッズなどで副次的収入が期待できるからだろうか。同人受けがよくなると、人気が長持ちするからだろうか。理由は推測しかできないが、本当にストーリー付きが多くなった。ゲームにはストーリーが必要なのか?ゲームとストーリーとの関係を考えたい。

ゲームとは?

このブログでは度々書いているのだが、ゲームとは「ルールがあるもの」と考える。ある行為について、『制限』を与え、その結果を『評価』する。この『制限と評価』のルールが競技性を生み出し、ゲームとなるのだ。

アドベンチャー(ADV)

最も古いゲームでストーリーが付いたものは、ADVである。いや、元はRPGだったが、RPGの娯楽要素のうち「ストーリーがからむもの」を中心にしたゲームがADVとして独立したのだ。『ADVはゲームか?』とは、度々問題にされるものだ。最もオーソドックスな「コマンド選択式」のADVは、選択の前に提示された情報から、次に取るべき行動を推理し、できるだけ無駄のない行動をすることが基本となる。コマンドから正解を探すゲームといってもいい。このタイプのADVではストーリーは少なく、プレイヤーの行動そのものがドラマとなりストーリーとなるのだ。そこに選択後のリアクションなどが長い文章になるようになった。読む要素が持ち込まれた。やがて観る要素、ムービーがつくようになった。それらの演出がストーリーになっていった。

RPG

昔はランダム戦闘がメインで、要所要所に難易度の高い敵がいて、それらを順に倒してゆくのが基本だった。そこに、難易度の高い敵との戦闘前後にシチュエーションの演出(文章やムービー)が入るようになり、ストーリーになっていった。

その他

ADVもRPGも、ゲームの演出部分がストーリーになった。
他のゲームでもそう、本来のゲーム部分に演出がついて、それがストーリーになっていったのだ。

ストーリー分岐

ADVやRPGではよくあることだが、ストーリー分岐というのがある。ある場面で行動次第で結果が左右されるというもの。ゲームとしてみれば、グッドエンド・バッドエンドというわかりやすい評価の演出として受け取れるものだった。しかし、最近のゲーム、特にサウンドノベルにおいては、真実が複数存在することになっている。はたしてこれはゲームなのか?あなたが頑張っても頑張らなくても、結果はどちらも真実です。主人公になりきって頑張ってきたのに推理の意味はなくなってしまう瞬間だ。『どれを選んでも正解』では、ゲームから競技性が失われ、ついてはルールの意味がなくなり、ゲームでなくなってしまう。よりよき結果を目指すことがゲームをするモチベーション(やる気)につながるのに、真実は気分次第で選んでよいよ、となると・・・。一気にゲームの外に追い出された感じがしないだろうか。ゲームは努力してプレイするもんじゃなく、暇つぶし程度にしとけ、ということか。このことはゲーム製作におけるジレンマとなる。パラレルストーリーがゲームにもたらす影響は、大きい。

デジコミ、ノベル

一昔、選択肢のほとんどない、あるいは選択肢を選ぶ意味のないほどゲーム性の少ないADVがたくさん出た時期があった。その多くは性描写を主体としたものだったが、そうしたものが規制されるようになってからは、読み物としての娯楽性を重視したつくりが増えてきた。同人でも簡単につくれる時代になり、月姫でそれは一気に加速した。読み物としての娯楽性、それを極端に大胆に強化されたものが、「ひぐらしのなく頃に」、だ。

選択肢なし!ひぐらしはゲームか?

ひぐらしのなく頃に』は、ゲームではない。選択肢が存在しない。読み進めるだけでいい。そこに提示された情報から書かれていない部分について推理する、それがゲームとのことだが、推理小説はそれを内包しているし、ミステリーであれば答えを提示されないまま終了することも多い。シャーロキアンは、「ライヘンバッハの滝」に落ちてから「空き家の冒険」の事件で帰ってくるまでの空白の時期について空想・推理する。ゲームブックでも似たことをやろうとしたものがあった。『送り雛は瑠璃色の』であるが、作者は「読み物としての娯楽性を強調したかった」としている。後半の最後に後日談とともに読者に対してととれる「質問」がついている。それについては正式な解答は書かれていない。読者はそれを空想・推理し、楽しむことができる。

ひぐらしが鳴く!

ひぐらし〜』がゲームたるには、先に説明した要素だけでは足りないのだ。だが、ゲームである可能性はまだ残っている。『シャーロックホームズ 10の怪事件』というゲームがある。これは、ホームズに成り代わり情報を集めることで事件を推理するゲームだ。地図がついている。これを見て現場の周辺に事件に関連しそうな場所を検討する。新聞がついている。これを見て、事件の日の前後に関連するような話題がないか検討する。そして、住所録がついている。これで住所を探し、ゲーム本体である本からその場所において入手できる情報をみつけるのだ。『ひぐらし〜』を進めると、情報がいくつか閲覧できるようになる。これが、『10の怪事件』と似た効果を起さないかと期待する。ゲームであるかないかの決定的なポイントは、あとは解答を提示していただくだけだと思う。ゲームであるためにはルールが必要。この場合は評価のルール。それがないなら、ゲームではない。メディアの新しい読み物娯楽である。ともあれ、『ひぐらし〜』は読んで面白い。ゲームかどうかなんて気にせず楽しむが吉☆

シルバー事件

マニアなら知っている、須田剛一の作品。ADVであるが、ほとんど選択肢がなく、ストーリーを読み見るもの。だが、ゲームであろう。視点はつねに一人の人物のもの。彼を動かしてこそ、ストーリーを体験できる仕組みだ。ごく一部の選択肢あるいはパズルがとけるかどうかでゲームオーバーの可能性が残っている。正解が隠されたそのパズルにゆきつくまで、あなたが開けたドアが、そのドアを開けたせいで事件が起きたとしたら・・・それは三人称視点で誰かが開けたときよりも、感じるものは多いだろう。そこが重要なゲームだったと思う。シルバー事件はゲームだ。

ゲームがなくなる?

読み物としての娯楽性と、ゲームの娯楽性を混同してはいけない。『優れたゲームであるかは関係ない。ゲームは楽しければいい。』なんていってられない問題だと思う。このままゲームがストーリー主体になっていったら、ゲーム部分が邪魔になっていきはしないだろうか?ゲーム製作のみなさん、気をつけてください!演出はゲームのライバルです!演出はゲームの親友、そしてライバル!ライバルにおいしいところをもってかれないように。ゲームがゲームであることができますように。

追記:05.01.15.

私が尊敬しよく読むブログの様よりトラックバック、紹介をされました。
今一度読み直し、考えてみると、書いた当時に感じていた「すっきりしないもの」が明らかになったので、追記します。

ゲーム、ゲームする、ゲームソフト、これらの違い

ひぐらし〜』はゲームソフトではない。ノベルソフトというべきか。『ひぐらし〜』はゲームを誘発させる。そう、TRPGの世界設定資料のようなもので、ゲームそのものではない、ということを言いたかった。これが、結論『ひぐらしはゲームではない』の意味である。

答えを書かないことが許されるようになった

実は『ひぐらし〜』は新しいゲーム発生の手法とか、新しい娯楽の可能性を示しているのではないか?とも思った。
推理小説の楽しみ、娯楽性を、このネットの時代にやっと、存分に発揮できるようになったのかもしれない。
また、『ひぐらし〜』は、謎について直接的な解答を用意していない。続編というかたちでその答えらしきものを伝えていくつもりのようだ。これも新しいと思う。同人ならではのものでもあるが。商業であれば、解答は同梱か袋とじが精一杯となるだろう。

ネットで広がるもの

ああ、ブレアウィッチ・プロジェクトのときも、こうだったにちがいない。ネットで皆それぞれの推理を述べ合う。人の推理をもとにまた別の推理を展開する。ファンどうしが接触をもちやすいネットだからこそ、うまく推理ゲームが展開されているのだ。そうでなければ、『ゲームの競技性』が生まれない。

情報を伝える立場、情報から推理する立場

そうか、『ひぐらし〜』の作者がTRPGゲームマスターの役割を担っているのだな。そして読者であり推理する者達はプレイヤーの立場。ロールプレイこそないが、『ひぐらし〜』の主人公の立場になって考え、それを楽しんでいる。
どうやら、『RPGってなんだろう?』という謎についても手がかりとなりそうだ。

ひぐらし批判ではないよ

ユーザーの皆さんには「ゲームかどうか関係ない」のだが、あえて「ゲームでない」と書かせてもらっている。ゲーム業界のため、ゲーム開発を目指す人のため、ゲームマスコミのため、こういう意見が必要と感じている。どんな趣味の世界においても、古参ユーザーは業界のために何か行動するべき立場になってゆくと思う。それが、楽しみをくれたものへの恩返しにもなる。

二度目はウケないぜ!

ひぐらしはゲームではない』この結論に変りはないが、『ひぐらし〜』の読者が推理を始めた時点でゲームが始まる。読んだだけではゲームが存在しないのだ。だから、『ひぐらし〜』本体は、ゲームではない。
今後、この手法の深い意味を理解せずに真似するものが出るかもしれないが、そうなればRPGが粗製濫造された時のようにゲームジャンルの未来を狭めかねない。現在、MMORPGが粗製濫造されているが、これもオンラインゲームの未来を危ぶまれるものだ。