なんのドラマもないものをRPGと言ってよいものか?−自由がドラマを殺す−

ちょっと忙しくて目を離していた間に、TRPGにおける自由についての論議が溢れています。

 
TRPG関連での自由について、私の思うところ・考えを整理して簡略して書いておきます。
 
・行動の自由という幻想(無目的)
GTAが世のゲーマーに受けた理由が、「自由度が高い」とのことをよく聞きます。箱庭の中で何でも好きに行動できる。目的も自分で決めて町中を隅々まで堪能しよう。そういうゲームだといいます。でも、チンピラが子供みたいに自分の能力や環境との接点を確かめたくていたずらをしているような、そんな知育過程の低いところの遊びです。しかし、大体の人は、悪ふざけはある程度で飽きて、本来の任務を遂行する方が面白いと気付くでしょう。
 
GTAとよく比較で引き合いに出されるのが侍-SAMURAI-(PS2)です。侍の場合、目的がある程度絞り込まれています。主人公の登場時のイベントで、自身立場がやや正義漢の色が強いとわかるのです。GTAのように町中をくまなく探索できるのですが、それでも制限が多く、行動できる時間が限られていることもあり、自然と本来の目的に誘導されていきます。事件のにおいを辿っていくと、子供のようないたずらで満足する人には到底わからないような奥深い仕掛けを体験できるのです。
 
・ストーリーとは(物語娯楽の趣旨)

文章:ボールを投げた。飴舐めた。
 
物語;ボールをなげた。舐めている飴を落とした。
 
ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む より引用

ストーリーとは、出来事の羅列でなく、一連の出来事の因果関係があること。またその出来事の結果次第であるにも関わらず、起きそうも無い方が起きていること。つまり、先に挙げた「自由といいながら悪ふざけ」というのは、ストーリーにはならないものです。
小説や映画におけるストーリーの楽しみというものは、「現実ではありそうもないようなこと」「現実ではないこと」「現実では体験したくないこと」「現実では体験できないこと」というものではないでしょうか。もし、あなたが買った小説が、「ありふれた出来事が、なんのドラマもなく書かれて終わる」としたら、映画が「なんの事件もなく平和なままで、ヒーローもヒロインも登場せず」というものだったら、それは価値がないと、がっかりしませんか?
 
よいストーリーを書くには、「起承転結」が大事と言われます。「起」の前と「結」の後は、平和な日常でしょう。しかし、ストーリー中は、事件や問題が発生して、それに対する行動をとる人物がヒーローやヒロインとなるわけです。(事件とは縁の無い地域のことは書かれない。事件に対処しない人たちのことは、犠牲者が多少書かれるだけで、それをメインにはされない。)
 
・ゲームとストーリー(物語の結末、物語の経過、物語への納得)
ストーリー分岐のあるゲームでは、しばしば途中でゲームが終わる「バッドエンド」があります。事件を解決できないとか、主人公が死んでしまうとか、ストーリーの続行が不能になるものです。ストーリーゲームにおいて、バッドエンドしかないというのは、禁じ手であり、掟破り、トラウマとなるものです。しかし、それでもバッドエンドなりに目的が達成されてのことであれば、受け入れられることもあります。そこにバッドエンドでもドラマがあれば、ということです。
 
・ドラマ(見どころ)
ドラマのないまま進むものを延々見せられるというのは辛いものです。高校野球で、あまりにも戦力の違いがありすぎる場合、一方的な試合展開に最初は驚くものの、次第に飽きて見ていられなくなります。リーグ優勝の決まった後の消化試合というのも、見る方もやる方も辛いでしょう。戦力の近い試合のほうが、どうなるかわからない、逆転につぐ逆転という最も贅沢な楽しみを味わえるでしょう。優勝決定までの接戦が三つ巴になっていたりすると、見どころが増えて楽しみが増すでしょう。
 
・ストーリーを決定付ける要素(ありふれたものから、特定のものへの絞込み)
TRPGで箱庭が失敗する理由は、ドラマを起こせない場合でしょう。プレイヤーが目的を見出せなくて、行動に一貫性がなくなってしまいます。マスターの提示した状況が、あまりにも事件性がなくて、ありふれた日常の行動をとるしかなくなってしまいます。(これは箱庭に限らず、セッションの開始の失敗の原因)
 
・ストーリーのない世界
MMORPGのほとんどが、目的の提示もなく、行動はプレイヤーに委ねられています。投げっぱなしともいえますが、モンスターがいるとはいえ、ドラマが起きない世界であるからです。一部、プレイヤー間でドラマを起こすことがありますが、それはゲーム世界とは無関係です。これもまた、「悪ふざけのいたずら」と同様に「ストーリーでなく出来事の羅列にすぎません。
 
RPGが他のゲームと違うところ(プロレスが他のスポーツと違うところ)
D&Dにはアラインメントがあります。性格を決めて、行動を制限するものです。
ルーンクエストには宗教理念があります。種族や宗教が性格にも影響し、行動に制限をします。性格や宗教のないルールでも、キャラクターに性格や人格がそなわっていることを意識してプレイすると、ドラマが起きやすくなるものです。人質をとられたときに、行動を躊躇するのがドラマです。
野球では、直球だけではなく、技術の向上にともなって変化球で手段を増やし、戦略の幅を広げるものです。優勝決定戦において、試合終盤で「完全試合」の可能性が出てきても、ピッチャー交代で完璧に勝利することを優先します。
プロレスでは、相手の技を避けてばかりではなく、技を受けてそれでも平気な顔をして立ち上がってみせるのです。相手の体力が落ちてきたところで、小技で消耗を量って勝つのではなく、大技で決めて見せるのです。
 
RPGはドラマが発生するもの(ストーリー的な意味で)
アリアンロッドでランダムダンジョンを延々繰り返してキャラクターの成長を楽しむのも、時間がたてば飽きてきます。そうしてプレイ中にちょっとしたユーモアが提供されたりします。
ダイス★クエストでのプレイ中にあったことです。ダイスク★エストには世界設定やストーリーもなく、キャラクターも性格など決めずに遊べます。
「スケルトン強いな」「いや、お前のダイス目が悪いだけだろ」
ケルトンはダイス★クエストの中で一番弱いモンスターです。たまたまダメージ受けの目が連続したのですが、それを『スケルトンが強い』とシャレたわけです。
以後、スケルトンが出ると、彼のキャラクターがなぜかダメージを受けるという場面が印象に残っていきます。「先祖がスケルトンに何かひどいことをしたんじゃないか」とか「スケルトンに弱い一族」とか、勝手に設定が妄想されていきます。
こうして自然発生的に『キャラクター(性格・人格をもった存在)』と『世界設定』が運用され、ドラマが起きるということになります。これぞRPGでしょう。
 
・セッションに活かすには
もし、マスターが箱庭セッションで好きに行動していい、と言われたときに。
自由を求めるのもいいでしょう。しかし、君たちのやりたいことは何だろう?あらかじめゲーム開始前に聞いてみるといいと思います。話し合いをするといいでしょう。そうすると、次第に自由の中にも取り決めや制限が発生する、ということが判りますね。取り決めがなくとも、大人であればゲームといえども他のプレイヤーに気を使うことでしょう。
そう、『自由について話し合う』のでなく、『参加プレイヤーがどういったことをしたいのか、それを互いに理解し納得できるところで折り合いをつける』、ということが必要なのです。
 
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