ストーリー中の勝ち負けの理由 背負うもの

現実的、シミュレーション的には、能力と戦略の優れたものが勝つということになります。現実的、という言葉には語弊がありますが。ストーリー内の勝ち負けには、能力以上の強敵に勝つこともしばしばあります。その理由がしっかり描かれるのが、最近の傾向なのでしょうか。
今週の少年サンデーにおいて、「気持ち」「意思の力」「勝ちにこだわる」などと、精神面の効果を連想するものが多かったので、それについて書いてみます。
ガッシュ:「強く生きろ。てめぇ自身が強けりゃよ・・・目の傷なんてなんでもねぇ。」
まあ、必ずしも外に出ないのが良くないとは言えないですが、自分から行動できるほうが、人生の可能性は広がるものです。ガッシュにおいての勝利は、ガッシュとの友情がちょっとずつ積み重ねていく”勝利への努力”が、相手の予想・戦略に例外的なダメージを与えつづけ、最大能力を発揮できなくなる、もしくはガッシュ側の成長が著しくなるということです。今回、奮起したロデュウ様のおかげで、一人、ガッシュ側に見方が増えることになります。これがゼオンの計画を狂わせて行くわけです。ジョジョ第4部のような。
結界師:「まだいけます。今、背負ってるものの大きさ刻み付けましたから」
それを改めて認識したところで何が変わるのか?いえ、人というのは、ほとんどの人は「優しさ」を持っています。特に大人になるにつれてそれは大きくなっていくでしょう。「優しさ」は、他人を傷つけることを躊躇させます。トドメをさせなかったりします。ドラゴンボールでも、悟空がピッコロやベジータに指摘されていました。守るもの、としては相手を殺すことが目的ではなく「生き残ること」「守る対象に傷つけられるのを防ぐこと」であり、追い返すだけでもいいわけです。でも、追い返すだけではだめなときもある。どちらかが死ぬまでとことんやらなきゃいけない、そういう相手と戦うときに、「優しさ」がアダになり負けるということがあります。それをふせぐために、「背負っているものの大きさ」が効果を発揮するということでしょう。
あお高:「どんなにカッコ悪くたって、明日で終わらせてたまるもんか。でも、チームでそこまで思ってんのはどれだけいるのか・・・」
勝ちにこだわる。「負けても次があるからいいや」というものと「次はない。これが最後だ」というものとでは、意気込みが違うわけです。
 
ゲームでは・・・RPGではどのようなルールで表せばいいでしょうか?
ガッシュの例なら、プレイヤー側とGM側に勢力ボーナスを儲けて、それぞれのドラマ要素が発揮されたなら自分の見方側の勢力ボーナスをプラスする、ということで。勢力ボーナスは、判定のときに修正を与えるものとして。
 
結界師の例なら、個人の背負っているもの、仲間と一緒に背負っているものなど、感情や出来事の共有と、それらの積み重ねについて、判定ボーナスを得るとか。感情や出来事は、劇中にて上書きできるとすればいいかも。
 
あお高の例は結界師の例に近いもので。ただし、結界師の例は最近のFEAR系などのようにそのときにたまたま一緒に行動したということで、基本的に個人・個別行動というもの。あお高は、野球という「協力プレー」が前提のもの。つまり、旧来のD&D以来の「パーティ行動」というのと同様で。
 
人は能力値通りに力を発揮できるとは限らないものです。また、ストーリー内における試合が「能力値通り、計算通り」に勝負がついても面白いとは思わないものです。まさか、という逆転劇、そういったスリルがもつドラマ性、ストーリー娯楽をTRPGにとりこんでいきたいものですね。
※追記:ゲームの楽しみ方には2通りあります。1つはスポーツのように「戦略・戦術」を駆使し、訓練と分析により、最適化して最大の効果を上げるようにするもの。その結果がランダム性による偶然が、奇跡の逆転劇を呼ぶものです。しかし、これは数回だけゲームしてもそのドラマを体験できるとは限らないですね。そこで、そういう逆転劇の起きやすいように、ルールでサポートするというのが今回の記事の意図です。
元来、D&Dなどでのドラマ性というのはスポーツ的な遊び方・楽しみ方から起きるものでした。それがFEAR系では、もっと頻繁に起きるように、あるいは故意に起きるように仕向けることが可能になったわけです。