セカイ系とRPG

セカイ系とは、自分と身の回り←→社会←→世界という関係のうち、社会を排除しているストーリー形式のこと、という認識で大体あっていると思う。現代の言葉の意味は、特に流行の言葉には、「一般化すると、固有の意味が薄れ、本来の意味とはかけ離れたものさえも指すようになる」という現象があるので、今のうちは先ほどの意味でよかろうと思う。


RPGの主人公は、なんの為に戦うのか。ゲームを進めてゆくと、必ず「世界の危機」に絡む事件にたどり着き、その根源たるラスボスと戦うことになる。経験値稼ぎと紙芝居を繰り返しながら、じりじりとラスボスに近づいてゆく。どうやっても「世界の危機」との関わりを絶つことはできない。そうなると、セカイ系的要素の準備ができてくる。「主人公の判断一つが、世界の運命につながる」


コンピュータRPGにおいては、戦闘のルールがほとんどで、戦闘以外のルールを用意しているのはあまりない。そうなると、主人公が「お金が欲しい」と思っても、「アルバイトを始めたり、何かの仕事に就いて働いたりする」といった社会の中にいることができない。お金が欲しければモンスターを倒して、ダンジョンで宝箱を漁るというわけだ。「社会の欠如」


ファイナルファンタジーに限らず、近年の若者向けの受けるストーリーは、「カップル」を使うものが多い。それを使って『恋愛』を匂わせ、同人を刺激する。『恋愛』をするということは、究極は『世界にはキミとボクだけ』という状況をお互いに思い込み作り上げてしまうものだ。「キミとボク」


コンピュータRPGセカイ系に近づいてゆくのに対して、TRPGは社会を捨てることはできないようだ。どんな「ストーリー志向」のシステムでも、セッション中に少しは『社会の中での行動』というシチュエーションが発生してしまう。町で買い物、宿屋で休息、困っている人に協力する、etc。
また、コンピュータRPGでも、インターネットによるオンラインRPGなら、社会が重要な楽しみの要素になっている。ギルドに所属する、店を出す、どろぼうをする、PKになる、PKKになる、etc。戦闘以外のルールが豊富にあるものほど、社会が存在しやすいようだ。


おまけ
ファーストガンダムにおいて、
アムロ「すいません、僕がしっかりしていれば、マチルダさんは・・・。」に対して
ウッディ「思い上がるんじゃない!たった一人の人間が戦争を終わらせ、世界を救うなんてできない」と、セカイ系にいきそうなニュータイプを、社会の中に引き戻している。
対してSEEDは・・・いかがでしたか。