はてさて

何やら記事がリンクされていたので。

実際、私の動画なんてまさに「荒らしまがいの釣り動画」で「アイマスへのリスペクトのない動画」でしかないんですよ。
  「1,000再生程度で伸び悩むMAD作れる人ってある意味ですごいよね」と彼は言った ただそのために/ウェブリブログ

そうは言うけど、「荒らしまがいの釣り」にもなっていないし、「アイマスへのリスペクト」はあるじゃないですか。そうやって自虐してるのが良くないんですよ。
あなたは自分自身のブログをオナニー呼ばわりしてるくせに、集客を気にしている。オナニーならば気にせず書くだけでいいじゃないの?でも投稿したんだから、誰かに届くとうれしいよね。届けば、オナニーじゃないってわかるじゃん。そして、届くことを望んでいるじゃないか。


ネット時代になってからも、常々悩むことのひとつは、この記事を動画をゲームをアニメを、楽しんでくれる人がいるはずなのに、その人達にきちんと届かないことが多いってこと。


で、
少しでも届くように、少しでも可能性を広げるために。
D



少し、話は変わるけど。
別のとある場所で、「オナニー」についての議論になった。
人の活動の根源はオナニー・自己満足とのこと。
でも、それは違うと思う。
確かに自分自身の考えや目的に帰納するけれど、それでも人との関わりが重要ではないか。
人間の成長にともなって、個人から他人との関わりがはじまり、そして社会性に関わっていくという。そういうことなんですよ。
所詮オナニーだから、というセリフには、麻薬ジャンキーがよく言うセリフ
「俺が壊れてもあんたに迷惑はかからないじゃないか」
と、似たものを感じるんだ。


所詮オナニー。そう考えていけば楽になるらしい。
でも、私は、そういうのは嫌なんだ。
宇宙からみたら所詮人間なんてゴミも同然。所詮一人の人間が死のうと生きようと、地球的には影響がない。所詮、所詮と、それは比較による錯覚でしょう。相対価値を示して、まるで価値がないかのように低くみえるわけだ。


楽になるためにハードルを下げたら、とことん落ちるんだ。そんなことはしたくない。楽になるためにハードルを下げるよりも、必死にやって限界までいって死にたい。


プロ野球じゃなく草野球なんだし、そんなに気を張らなくてもいいじゃないかと言われるが、そこじゃないんだよね。
草野球大好きですよ。
私が嫌っているのは、野球をしようって言って集まったのに、野球をしないでグラブとバットを積み木代わりに重ねて遊んでるような人たち。
試合を始めても勝とうという気がないばかりか試合をしない人たち。
野球じゃなくてもいい人達はそれでも楽しいんだろうけど、野球をやりたくて来た人には、そりゃつらいわけですよ。


全員がプロを目指せ、とは言わないし、草野球でもいいと思う。でも、本気でやるとまた違うんだよ。楽しさというのがね。だから頑張るんじゃないかな。
ハードルを下げまくると、面白さ楽しさも減少するから。その結果が今のテレビ番組ではないのかな。


「くだらないから面白い」のではない。「くだらないものの中にも面白いものがある」なのだ。
「ぐだぐだだから面白い」のではない。「ぐだぐだしてるようでも、実は中身があり、要所で締めている」から、面白いのだ。


そういう部分を間違えないようにしたいものです。


追記:
自分の行いを自分でオナニーと言う人達の理由について少し気づいたものがある。彼らは、何らかの行為をしたことが評価されない場合の保険として、オナニーと言っているのだと。オナニーと言ってしまえば、褒められなくても、ショックは小さいと。
そういう、負けを前提とした戦略なのだろう。
それと、私が「オナニー」と呼ぶことを嫌う理由も少し。
誰かが自身の行為をオナニーと言ったとする。それはまあいい。(少なくとも、私にとって、彼もしくは彼女の行為が誰かに受け入れられて役立っているならば、それはオナニーじゃないよと評価してあげたくなるものだ。ではあるのだが。)
誰かが、自身の行為ではなく、他者の行為をオナニー呼ばわりするのが嫌なんだ。つまり、評価として、価値あることを認めたいのに、それを無価値として卑しめる人が嫌なんだ。
人間の活動は全てオナニー、という言葉に対して、全てではないよと、言いたいのだ。