ゲームにおける死2 さらば「リセット」よ永遠に完結編

次の2つの記事に触発されて、過去に書いたものをちょっと呼び戻したりします。
PCの死の一回性(動物化するポストモダン2を読んで) - ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む
http://d.hatena.ne.jp/koutyalemon/20070322/p2
リセットって。。ゲームをよく知らない人がいう『人生はリセットできない』とかいうのでしょうか。

 

しかし、これは些細な問題です。なぜなら”リセット可能”っていうのはキャラクターと世界さえ用意すれば物語の可能性が幾重にも存在することの一例だからです。たくさん作られる物語の中には、PCがなすすべもなく全滅する終わりもありえる、そのときにはリセットしてやり直しますってことで、本質的なのはキャラクターと世界観があれば、いくつも物語が生成でき、物語の一回性が失われることにあります。
 
      (ブレーキをかけながらアクセルを踏み込む より)

おお、そのとおりですね。小説や映画は一つのストーリーしか見せないので、結末は一つです。しかし、近年映画化された「機動戦士Zガンダム」は、ストーリーにテレビ版との違いがありますし、テレビ版と劇場版で違うという例は結構あるもので、そういった多重世界になることを指して『リセット』と呼んでいいものか?それは違うだろう、というのがacceleratさんの意見でしょう。つまり、ゲームでのリセットも、多重世界の構造と同じと見ることが可能ということです。これはおもしろい見方ですね。
私の意見では、から、

エアリスはゲームのルールで死んだわけでなく、ゲームの外で「死んだことになった」のです。また、ゲームを最初からやり直せば、死のイベントに至るまでは再び生きたエアリスに会えます。これは、ビデオを巻き戻せば、というのと同じです。

と関連しそうです。
つまり、「ゲーム外での死」は、ストーリー上の死であり小説や映画と同じ。とはいえ、「ゲームの中での死」も途中で死んだら二度とゲームをプレイしなければ同じということに。なまじゲームではリテイク(撮り直し)が頻繁にできてしまうから死が軽そうに見えてしまう、そういう『錯覚トリック』があったというわけですね。
 
ゲームにおける死については、
フィクションをフィクションとして受け入れよ ゲームにおける死の表現とは? - Try to Star -星に挑め!から、意見はあまり変わっていません。
ゲームにおける死とは、現実における死とは違う意味をもっているのです。
 
今回はリセットについてもうちょっと書いてみます。
リセット行為というは「責任の放棄」や「努力の放棄」とは違う目的で行われるものです。
・ある時点で、ゲームオーバーが確定しているが、それが表示されるまで長い時間がかかるとき、ゲーム再開までを短縮するために行う
・そのゲームを何度かプレイしているので、ある時点でゲームオーバー確定の予見が早くできる場合がある。そうしたとき、1時間プレイした後に結局先ほどのミスが元でゲームオーバーになるのを見るまでもないので、ゲーム再開までを短縮するために行う
・そのゲームを何度かプレイしているので、選択による分岐で進むうち、ある時点で先の展開がどうなるか知っていることがある。そうした場合、他の選択の分岐の可能性を試すべく、ゲーム再開までを短縮するために行う
他にも例は挙げられますが、「ゲーム再開までを短縮するために」リセットされるわけです。
そして、リセットしたからには、その直前のプレイ(の努力)が無に帰すわけですから、プレイヤーは損失を被っています。無駄にした努力を受け止め、責任は放棄していないといえます。
努力や責任を放棄する人は、そのゲームをやめてしまうか、攻略本や改造コードで解決しようとします。
リセットにはリスクがあります。そのリスクを考慮しながらも挑戦し続ける、その姿勢はイチローやタイガーウッズ等プロスポーツ選手にも違わぬものと思います。
 

ロードス島のリプレイってのは
当初D&Dのリプレイだったのですよ。
んで版権の問題でルールを変えて
もう一回プレイなおしているのです。
 
実は裏ではリセットされループしているのです。あの話は。
死の軽さってのはループしてりゃ当然生き返るわけで……
           (TRPGのススメ? より)

うーん、それをリセットと呼んでいいものか。
物語りのほうは、リセットじゃなく、なんか呼び方を代えた方がいいと思います。輪廻転生、いや違うな。パラレルワールド、それはそのまま。うーん。