笑いの沸点、ネタのレベル

ダーリンは外国人』という漫画を電車のテレビで見かける。この前見た回の話題が気になったので書いてみる。
いわく、「日本人は笑いの沸点が高い」ような感じですかね?
外国人が登場して「日本人はユーモアがない」みたいなことを言う。
対して、「そんなことない!」と、作者さん。
笑いの違いを確認するテスト的なことを。
なんとか、いう映画を見ての反応の違い「ダンナ20回、自分3回 (笑った回数)」と。
ダンナは笑いの沸点が低いんだよ、なんて言っていた。
他に、こんな例をあげていた。


あるところに2人の兵士が訪れ、そこで片方が大怪我を負って倒れた。
もう一人は無線で連絡。「相方が倒れた。どうしたらいいだろう?」
「おちついて、命があるかどうか確認してください」
無線の向こうで一発の銃声。
「死んでいるのを確認した。あとはどうすればいい?」


これは笑えない、と言っていた。が、ダンナは「プッ」と噴出して笑った。
「命を確認してください、というところで、銃を撃つという非常識な行動に出てしまうことがポイント」
などとダンナ。


漫画はここまでだが、私なりにこれを分析してみる。
・笑いの沸点について
 これは個人差だもの、日本人、外国人というのは関係ないなぁ。
・ネタに問題がある?
 多分ここだと思う。私はディズニーの「ファイアボール」で笑えない。ドロッセルお嬢様はちょっと可愛いけど。オー!マイキーも似たテイスト。出来事が淡々と流れていくだけで、ツッコミが存在しない。
すごいよマサルさんも笑えない。ギャグマンガ日和も同様に。変態が変態な行動をしているだけで、ちょっと迷惑な人が迷惑をかけているだけに見える。
 どちらも、笑う手前まで来ていると思うのに、笑えない。あと一ひねりしてほしい、と思う。


・一ひねりとは?
 先の例でいうと、「命があるか確認してください」のあとに、「ガチャコン」と銃を構えるところで相方が気がつき、『殺す気かッ!』といってつっこみ。「OK,生きてたよ」これなら笑える。(と思う)
二段、三段とネタを絡めてくれるといい。
さらに大事なのは、死んでないということ。

ギャグというのは、非常識なことや異常なこと、予想を裏切る要素や説明不足の要素などからなる。
そうしたことは、少しズレるとただの迷惑な行動になってしまう。では、その迷惑な出来事の様子をなぜ笑えるか。
無関心で放任できるならば、その出来事に巻き込まれた被害者のことを心配もせずに出来事の異常さを笑えるのだろう。
しかし私は、そこにツッコミがないと、『ひどい奴だな』という感情が出てきてしまい、笑えない。
ここの違いなのだと思う。
ツッコミがあれば、被害者の怒りの逆襲がさらにカオスを呼び、ギャグは面白さを増す。
人殺しを見ていながら笑えるなんて不謹慎、と思う。だが、生きていればその行動をとろうとしたことさえも笑い飛ばせるというもの。
どんなに殴られて血の海を作っても、ハンマーで潰されてぺちゃんこにされても、爆発されて黒こげになっても、それでも生きているからこそ笑える。そこにリアルな死骸が転がっては笑えない。


ファイアボールでも、お嬢様の無理難題に、「そんな、無茶言わないでくださいよ!」とか悲鳴をあげてみせたり、お嬢様の怒りを買って粉々になってみたりすれば笑えるかな・・・ってそれじゃそれまでの海外ギャグアニメと変わんない。でも、ギャグの基本はすでに出来上がっている、ということの証明でもあるわけか。


テレビのバラエティ番組がつまらなく感じるのも、こういうネタのレベルのことがあるのかもしれない。人を馬鹿にして笑う、というネタの振り方は見ていて辛い。エスカレートするといじめの構図になる。そういう心配をなくして笑わせてくれるといいな。